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マザー・テレサ 金子一朗 2012/ 4月24日(火) 22:59
 生き物を飼うことは、ぼくにとって、常に死を意識することだ。生き物が死に向かっていくことを直視し、いつ来るかわからない、しかし確実にやってくる悲しみにおののくことだ。それに耐えることはとても苦しいことだ。その死に直面するとき、自分がやってあげられなかったことのいちいちを悔い、取り返しのつかない事実にうちひしがれる。そういう自分を精神的に救ってくれる存在がなければ、永遠にその罪にさいなまれる。死について、罪について、何らかの救いを得るために、多くの人は宗教を大切にする。宗教を信じない人は、果たして、自分が自身の死を目前に控えたことを自覚したとき、そこにマザー・テレサが、「もしよろしければ、あなたの不安と恐怖と苦痛を取り除いた状態で、幸せに死を迎えられるようにしますが、いかがいたしますか?」と言われて、拒めるだろうか。ほとんどの人は、そこで初めて、宗教の大切さ、偉大さを知って、喜んですがるのではないだろうか。心の闇と恐怖を取り除いてくれる存在は、それがなんであっても、その人にとって神なのだろう。ぼくは、幸か不幸か、まだ、そのありがたみを知らないでいられる。それは、恐らく、ぼくの周りの多くの人から、自分が助けられているからだろう。人から受ける施しほどありがたいものはない。
東日本大震災チャリティーコンサート 金子一朗 2012/ 4月22日(日) 21:27
 複雑な情念の揺らぎを様々なリズムや多様な音色、複雑な対位法などを用いて表現しているという点で、スクリャービンのソナタ第10番は近代ピアノ作品の傑作とよべる作品の1つです。様々な方からのお誘いを受け、また、東日本大震災の被災地への支援の一環として、4月27日に、この作品を演奏会で演奏することになりました。

http://www.piano.or.jp/certification/special/charity/

他の共演する方々は、どの方もとてもレベルの高いピアニストです。もしご都合がつきましたら、ご来場賜れば幸いです。
砂浜の穴掘り 金子一朗 2012/ 4月22日(日) 11:51
 先日、教育関係者と教育学について議論した。教育学では、教育ということについて様々な定義をし、さまざまな価値観を普遍化して統合し、あるべき理想的な形をマクロ的な視野で追求している。その一方で、教育の現場では、個々の生徒との関わりが中心であるから、ミクロ的な視野で対応することが多い。現在の日本で抱えている教育上の長所、短所についてさまざまな視点で考えることができてとても有益であった。しかし、若い頃に受ける教育の内容は、ほとんどの場合において、すでに発見、流布されて時間がかなり経過したものである。たとえば、中学の数学で勉強する図形の諸性質は2000年以上前から用いられてきたものである。一方で、昨今の学校教育では情報という教科があり、そこではパソコンの使い方から各分野への応用、道徳的な理念に到るまで幅広く学習することが義務づけられているが、これは少なくとも今の社会人のほとんどの人たちの学生時代にはなかったものであり、この分野は常に変容している。一部の人たちには、前者は不要で、後者が必要であるという考え方があるが、歴史を紐解けば、その考え方は正しくない。それは、不易流行という言葉に集約されている。どの時代にも古いものと新しいものが存在しており、現代に限ったことではない。その中で、先人は不易流行という言葉で新しいことだけを追求することの危うさと古いことだけに凝り固まる危うさの両方を戒めている。新旧と分野を問わず、幅広い分野を勉強することは、特に若い頃には極めて重要である。
 たとえば、砂浜で穴掘りをする。より深い穴を掘るには周りを掘らないと埋まってしまう。教科の勉強も全く同じで、ある限られた教科だけを勉強してもあるレベルまでしか到達しない。
 芸術活動についても全く同じで、ある限られた作曲家、またはある限られた作品だけを勉強してもあるレベルまでしか到達しない。また、演奏をするのに、音楽という芸術分野だけしか触れていないのは同じ理由で限界がある。
 これに限らず、他にも日本と他国の教育システムの比較など、多くの有益な議論があり、とても勉強になった。職場でも演奏でも、こういったことをフィードバックしてみたいと思う。
金子一朗 2012/ 4月13日(金) 21:11
 こういったことに限らず、古い時代の作品を演奏するには、当時の様々な習慣や価値観などを知ることは意味があるだろう。しかし、それだけで良い演奏になるとは限らない。まったくこういったことを知らないからと言っても、そういう人が感動的な演奏ができる可能性はある。ただ、知らないよりは知っていた方が良いし、よほどの才能がない限り、数多くの才能ある人達の良い趣味の集積にはかなわない。しかし、その、才能というのは、どこからくるのだろうか。ある部分を素晴らしく表現できるとすれば、その源はなんだろうか。素晴らしい人の演奏の真似がその根拠になっていないだろうか。初心者は真似と教育が必要だと思う。しかし、ある段階からは、自分で勉強し、自分で研究しなければいけないだろう。僕には、自分が教わった尊敬する先生は、すでに教わりたくても教われない。そういう時期が来る前に、自分の力で作品を音楽的に演奏できる術を身につけなければいけない。ピアノに限らず、何かを教える教育者は、教える相手に、一日でも早く、自立してもらうように教育しなければいけない。教わる側も、どうやったら人に教わらずに作品を仕上げられるかを常に考えるべきだと思う。ありがたいことに、日本では、多くの、価値のある情報が簡単に手に入る。皆が誰にも教わらずに楽しく音楽ができる世界が来ないだろうか。
良い趣味 金子一朗 2012/ 4月12日(木) 21:07
 右手のメロディーの長い音符につけられたトリルを、均質な速さで、しかも、よりによって左手の伴奏と周期を揃えて弾く演奏にたまに遭遇するが、とても違和感を感じる。これについては、F.クープランなどが、最初は遅く、そして徐々に速くしていくようにするべきだと述べているが、いくつか理由がある。トリルとは、もともとその音(基音)を強調するために付けられている。つまり、アクセント効果である。また、それがカデンツのドミナントの構成音に付けられていれば、トニックに解決する収束のニュアンスを表現しなければいけない。トリル音型は旋律ではないから、16分音符や32分音符で均質に弾いて、左手の伴奏の音型と縦の響きを揃えると、もともと作曲家が必要とした意味と一致しない。また、激しく単調であり、良い趣味でない。
 更に、鍵盤楽器では表現できないが、弦楽器や管楽器の場合、強弱や音程を自由に揺らせることができる。長い音符の場合、そういった楽器では、弱い音から徐々に大きくしたり(その後弱くすることもある)、わざと均質な音量で演奏したり、そういうことが自由にできる。しかも、そこに、トリルではなく、ビブラートを自由につけることができる。そういう自由が鍵盤楽器ではほとんど効かないのだから、トリルの表現を自在にせず、均質にすることは音楽的に違和感があると思うのは当然であろう。(続)
装飾音の弾き方 金子一朗 2012/ 4月11日(水) 21:03
 多少専門的な話だが、止まらないのでしばらく続けたい。
 書かれなくても常識でなければいけない規則は、当時の文献などから身につけなければいけない。たとえば、バロック時代の作品のトリル一つとっても、数十年前の日本では何でも主音から始める人がいたが、間違いである。また、数十年前に出版された国内の楽譜で現在も出版され続けているもの、特に教育的色彩の強い楽譜の中には、まだそれを放置しているものもある。多くの場合は上接音から始めるというのが一時期の定説であったが、それも前期バロックと後期バロックでは異なる。また、トリルのついている音が、前の音からスラーでつながっている場合、経過音である場合、非和声音である場合、トリルのついている音が非和声音である場合などは例外となる場合が多い。トリルのついている声部とバスの声部または他の声部が、トリルのつけかたによっては作曲学上の禁則(並行5度、並達など)になることがあり、これも注意しなければいけない。また、トリルの2音の幅は、その調や和声によって長2度の場合と短2度の場合があるが、これについても、ほとんどの場合、楽譜には指示がなく、正しく判断しなければならない。これらのことは、正しい様式感を持った耳であれば、理論的に考えなくても正しい表現ができるのであるが、それでも、ある程度の作曲学的な知識が必要である。また、前期古典派の代表格、モーツァルトの作品では、トリルを上から弾く場合もあれば主音から弾く場合もある。ベートーヴェンの場合は中期から後期古典派なので、トリルをほとんど主音から弾く。モーツァルトの場合、そういった規則については、彼の父、レオポルド・モーツァルトが残した文献などが参考になる。(続)
象徴 金子一朗 2012/ 4月10日(火) 19:24
 実は、楽譜について、バロック時代の作品に細かな指示がなく、近現代になればなるほど細かな指示が増えてくるというのが通説だが、ぼくは個人的にはあまりそう思っていない。たとえば、ベートーヴェンの悲愴ソナタの3楽章にはAllegroという指示があるが、バッハのパルティータ4番の3曲目には速度表示がないかわりにCouranteという舞曲名がついている。また、同じくパルティータ6番の3曲目にも速度表示がないが、Correnteという舞曲名がついている。しかし、CouranteもCorrenteも、バロック時代には誰もが知っている有名な舞曲のスタイルで、どちらも流麗なもので、前者はフランス様式で2拍子と3拍子が頻繁に交替する複雑なリズムの幾分ゆったりしたもの、後者はイタリア様式で3拍子の、より速い速度で流れる速いパッセージが特徴のものであることは周知であった。つまり、この舞曲名がAllegroなどの速度を表す標語やリズムや拍子の特徴をすべて表していたという点で、古典派以降と情報量はあまり変わらないと思っている。アーティキュレーションや強弱も、当時のルールを知れば、ほぼ正しいスタイルで表現できる。乱暴な言い方だが、学校の音楽の授業でAllegroの意味は習うが、CouranteやCorrenteなどの舞曲の意味(ニュアンス)も同じように習っていれば、バロック時代の作品の演奏はあまり困らないということである。もちろん、限られた授業時間ではこういったことを教えることは不可能に近いが。つまり、ぼくは、バロック時代もその後の時代も、読み方さえ知れば、楽譜の情報量はさほど変わってはいないと思っている。ただし、政治的な理由から、18世紀前半以降、こういった暗黙の了解がそうでなくなってきて、作曲家が詳しい情報を楽譜に詳しい情報を記載するようになってきたというのが通説である。(続)
Courante とCorrente 金子一朗 2012/ 4月 9日(月) 23:34
 これは面白い問題を提起する。ロマン派以降の作品だけを演奏している人をAさんとし、バロック、古典派を演奏している人をBさんとすると、Aさんはバロック、古典派を正しく演奏できない可能性がある。それは、「書かれたこと」だけを演奏している可能性があるからである。もちろん、そうでない人もたくさんいる。しかし、B さんは、作品の時代背景から作曲語法、当時の様式などを理解して演奏することが習慣化しているため、ロマン派以降の作品を演奏しようとするときに、書かれていることだけでなく、バロックなどを演奏するときと同じような知的アプローチをするだろう。自ずと表現は異なるはずだ。もちろん、使う演奏技術は異なるところがある。たとえば、ロマン派以降では和音やオクターブの急速なパッセージ、最強音から最弱音までの音量の変化、さまざまなペダル技術など、古典派、バロックには要求されないものもたくさんある。しかし、音楽の本質的な表現に比べれば、こういった問題は些末である。頭で正しく理解されていないで技術だけがあっても、意味がない。ぼくに最高のスノーボードを与えても、履き方すら知らないぼくは決して上手に滑れないだろう。それと同じである。(続)
最高のスノーボード 金子一朗 2012/ 4月 8日(日) 19:28
 そう、ぼくは母に連れられて、15歳の時に初めてオペラを観に行った。それは、プッチーニのオペラ「蝶々夫人」の日本語による上演のものであった。しかし、第1幕から、様式のずれによる不快感が増大し、ついには耐えられなくなり、母には悪いが第1幕が終わった段階で母に感謝することもなく、生意気に「気分悪いから帰る」と言い放って会場を後にしたことがある。今なら我慢して最後まで観劇して母に気遣うのであろうが、当時は未熟だった。それが原因で、その後10年間、オペラを嫌悪することになり、オペラの理解が著しく遅れた原因になった。初心者には本物の、しかも最高のものに触れさせるべきであるという考えは、自分のこういった経験からも極めて重要なことであると思っていて、自分が所属する教育機関でも、そういったことを常に念頭に置くことを考えている。
 話を元に戻す。近現代の作品では、作曲家はあらゆる誤解が生じないように、強弱、アーティキュレーション、速度だけでなく、表情など、さまざまな言葉を使ってまで楽譜に書き込んでいる。また、楽器も現在の楽器とほぼ同じなため、書かれた通りに演奏すればバロック時代の作品を演奏するような問題はほとんど起こらないはずである。しかし、現実には、なかなか一筋縄ではいかない。(続)
江戸落語 金子一朗 2012/ 4月 7日(土) 22:14
 バロック時代の作品には、強弱、アーティキュレーション、速度などの指示がほとんどなく、これらを演奏者が自分で決めなければいけない。しかし、これは勝手に決められるものではない。さまざまな過去の文献から当時の表現様式を理解し、その法則に則った形で、しかも自由に演奏しなければいけない。仮に勝手に決めると、シェイクスピアの劇を、求められていないコックニーで発音して演じたり、伝統的な江戸落語を江戸弁でなく東北弁でやるように、プッチーニのオペラをイタリア語ではなく日本語で上演するように、少なくとも様式として正しくないものにしてしまう可能性が極めて高い。しかも、楽器は当時のものと現代のピアノは全く構造も響きも異なるから、適切な変換が必要となる。
 たとえば、メヌエットという舞曲がある。詳しく述べると、ルイ14世を中心とした世界史の、広大に拡がった裾野まで議論が及ぶので略すが、他の舞曲も含め、バロック時代の舞曲は、同じ名称でも、作曲された年代や地方によって、速度やスタイルが異なる。しかし、ほとんどの場合において、楽譜には拍子と音符と休符以外の情報は記載されていない。作曲家によっては一部の音符を省略していることもあるくらいである。それでも楽譜が楽譜として成立していたのは、作曲者が楽譜に詳細な情報を記載しなくても、年代と地方と演奏者のレベルがある程度限定された当時の音楽環境においては、その様式がほぼ正確に表現されたからである。しかし、現代にその経験則は通用しない。(続)
ドミソ 金子一朗 2012/ 4月 6日(金) 21:20
 また、フィグールと間接的につながりを持つ概念として調がある。モダンピアノを演奏する我々はどの半音をとっても、それら2音の振動比が同じである平均律に慣れ親しんでいるが、今から100年以上前の時代は、ヴェルクマイスターやミーントーンなど、特定の調はきれいに響くが、それ以外の調や、まれにしか用いられない音程は美しく響かない調律法であった。これは、少し乱暴な言い方であるが、簡単に言えば、ハ短調のドミソとニ短調ドミソにあたるレファラは、移動しても重ならないということである。これによって、当時は、調ごとの明確な性格付けが可能であった。たとえば、ヘ短調は最も陰鬱で悲劇的な調の一つである、調号が増えるごとに、響きは不協和なものが増えていく、などである。(続)
神に対する敬虔な気持ち 金子一朗 2012/ 4月 5日(木) 23:11
 ただし、フィグールについては、印象や象徴と密接に関わっているため、和声分析などに比べればとてもファジーなもので、上行音型はなんでもAnabasisであるとか、そういう単純なものではなく、様々な複合的な組み合わせによってできるものなので、昨今の楽曲分析は、多くの場合、調や和声やモチーフなどのような確定できる素材を元に、一部の人たちに即物的な印象を与えながらなされている。しかも、同じAnabasisでも、気分の高揚だけではなく、明るさや強さ、喜び、神に対する敬虔な気持ちなど、さまざまなものを表すため、解釈が分かれる部分もある。また、音楽は横の流れだけではなく、縦の響きの変化もあり、複数の声部の相互関係もあるので、フィグールを音型だけにとらわれすぎると、良くないこともある。演奏行為や視聴においては、直感を優先すべきだという人が多いことも知っているが、今述べた即物的に見える部分はごく一部のものであり、たとえば、僕の場合は、子供の頃から、いわゆるフィグール的な感覚をとても大切にしている。実は、音型だけではなく、調や和声や構造のフィグールも説明がつくわけであり、近現代では、その概念は失われたというのが定説であるが、むしろ、拡張され、個々の概念が融合、統合され、個々の概念自体は希薄になったが、フィグール自体は厳然と存在し続け、結果として多くの複雑な感情表現が音楽でなされていると思う。(続)

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