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1922: 小笠原諸島に来ています 万訪 11月24日(日) 01:16
今父島にいます。小笠原諸島にやっと来ることができました。去年も予定していましたが、直前で仕事のトラブルが起きてキャンセルでしたから念願です。
東京から南南東約1000km。沖縄とほぼ同じくらいの緯度にある絶海の孤島です。島の発見は古く、西欧人も日本人も着目していました。江戸時代西欧の捕鯨船の寄港地となり、捕鯨船相手に商売をするためハワイから25人が入植しました。その後、日本人も八丈島から入植。ペリーが江戸にやってきた時も立ち寄っています。そして明治になり日本の領土として確定。東京へ向かう貿易船の中継地として、また農漁業の島として栄えました。農漁業は、例えば冬の野菜など江戸への高級食材の供給地だったそうです。だから、現在東京都なんですね。

万訪 11月24日(日) 01:28
父島の二見港に面する中心集落の大村地区です。明治期から戦前まで、港町として栄えました。東京で手に入るもののほとんどがこの街で手に入れられたといいます。しかし、第二次世界大戦で全島民が強制疎開させられ、戦後帰還し再整備されたのが現在の街です。現在は父島・母島にしか人は住んでいませんが、戦前は父島列島・母島列島そしてさらに300km離れた硫黄島にも人が住んでいました。
現在の大村・奥村地区には古い建物は残っていません。戦後帰還した際に建てられた都営住宅に多くの方々(企業の社長さんも)が住まわれています。世界遺産と観光の島として多くの人が訪れます。若い人たちが多く、なんでも手に入ります(高いですが)。でも離島ならではでのんびりしています。

万訪 11月24日(日) 01:33
父島母島には戦跡が多く見られます。瀬戸内の島もそうですが、離島の大きな役割は防衛です。小笠原の場合、アジアの植民地との通信の中継地としての役割が大きかったそうです。

万訪 11月24日(日) 01:36
母島は父島のさらに南、船で2時間かかります。ここも沖港にある沖村地区が大いに栄えていました。現在はのどかな島唯一の集落です。画像は戦前の写真ですが、如何に多くの人が住んでいたか。

万訪 11月24日(日) 01:46
上記の解説間違えました。白黒写真は、母島の一番北にあった北村の戦前の姿です。現在はこのように港の桟橋と小学校の跡だけが見られ、戦後の居住者はいません。とても綺麗で静かな入江です。

万訪 11月24日(日) 01:51
母島沖村にあった古い建物を小学校裏に移築保存されたもの。島で採れる石材を積んでいます。こういう作りからして、西欧人が入植した地であることがよくわかります。

万訪 11月24日(日) 01:57
小笠原諸島は東京以外の場所から行くにはハードルの高い離島ですが、とてもいいところです。町並みとしての見所はほぼゼロですが、何度でも行きたくなる島です。リピーターが多いこともうなずけます。
こんな離れた孤島に東京の郊外と変わらないような街があるというのも不思議な感覚。方言も無いですし、品川ナンバーだし。24時間の船も意外にも快適でした。また訪れたいと思います。

Kさん 11月24日(日) 07:18
島旅、ここに極まれりですね。

椎葉あり、小笠原ありと、さすがいらかぐみです。
こちらはせいぜい、京都と大阪のギャラリー辺りをウロウロ。

先日行った、京都市北区中川北山町の杉丸太倉庫群がちょっと遠出の部類です。


七ちょめ 11月24日(日) 08:40
小笠原諸島の探訪、素晴らしいですね。雨と心配していましたが良い天気のようで良かったですね。
青ヶ島はまだなんですね。ここが本命と思います。期待しています。

私も10月中旬に長野県北部を訪ねてから約1ヶ月、そろそろと思い小笠原のように遠くではないですが、28日から近くの岡山県と鳥取県の旅館に泊まってきます。
車での探訪ですが、免許返納まで2ヶ月程、車の旅を楽しんできます。

孫右衛門 11月24日(日) 12:00
ついに小笠原諸島への旅実行ですか。貴重な船便、旅客と貨物が混載ということからも伝わってきます。海の色から違いますね。写真を見るだけでも南洋、南国という感じがしてきます。
私にとっては探訪予定地候補にも挙げられない島々です。マリンスポーツや自然に視点を置いたレポートは多いのでしょうが、集落のレポートは珍しいでしょうから期待しています。

万訪 11月24日(日) 12:38
やっと大物を仕留めたというところで、感慨深いものがあります。まだ90余島ありますが2年で完結させるつもりです。大物はトカラ列島の未訪の2島と鹿児島県三島村の2島、そして最難関の青ヶ島と北海道厚岸小島です。
小笠原諸島の集落レポは初めてでしょう。年内にはあげたいですね。
igw7-71.it-ogasawara.com
1830: 南牧村の養蚕農家 辰巳屋 11月 1日(木) 05:51
現在、秩父にいます。
10月29日に長野県佐久に宿泊し、田口峠経由で群馬県南牧村に入り、上野村経由で秩父まで来ました。養蚕農家の集落の訪問が主な目的ですが、長野県佐久市の広川原、馬坂は良く養蚕農家が残っていました。ほとんど南牧村のようでしたが。

画像は、田口峠(県道下仁田臼田線)の道路です。


辰巳屋 11月 1日(木) 05:53
画像は、広川原です。二列に並んだような状態で建てられています。
ここは、南牧村ではないようです。佐久市です。

辰巳屋 11月 1日(木) 05:54
南牧村では、熊倉、勧能、星尾(仲庭・大上・小倉・道場)、赤岩、六車、山仲、下底瀬、上底瀬、大仁田、奥の萱と訪問しました。
画像は、熊倉です。

辰巳屋 11月 1日(木) 06:01
画像は、星尾大上です。

七ちょめ 11月 1日(木) 09:28
後の二つの画像の集落風景は良いですね。紅葉と天気で良い画像ですね。

私は今、新幹線で熱海に向かっています。地域の団体旅行です。泊まりは伊東温泉です。今までは家内が参加していましたが、今回は事情が有り私の参加に。

万訪 11月 1日(木) 14:19
辰巳屋さん、なんと秩父におられるんですね。この後、養蚕つながりで栃本行かれるのですか?
南牧村の奥地はよく残っていますね。見応えがあったことと思います。おっしゃる通り、広河原は長野県佐久市です。とんでもない峠を越えないと市役所に行けない。したがって、このならびの上信国境では田口峠だけ冬季閉鎖になりません。
なぜそんな国境線が引かれたのか、わかったら教えてください。

孫右衛門 11月 1日(木) 22:35
精力的に探訪されているご様子、災害対応も落着かれたようで何よりです。私はこれからなかなか動きづらくなる時期に入りますのでその分もお願いします。
それはともかく、南牧村は9月に訪ねているのに、挙げられた集落はどこも全く訪ねていません。まだまだ粗い探訪です。
私は山梨県側から秩父地方にアプローチし、小鹿野、上野村、南牧村を経て下仁田町から佐久・中込に抜けました。

辰巳屋 11月 2日(金) 06:06
上野村では、楢原(旧黒沢家)、乙父、乙母、川和、新羽、野栗沢、胡桃平、八倉、平原、橋倉、持倉、高塩、元船子、間物を訪れました。

胡桃平は、斜面に並ぶ養蚕農家の建物が印象的でした。

辰巳屋 11月 2日(金) 06:10
八倉を訪れ、八倉の麓にある橋倉集落で、地元の人に聞くと、八倉よりもさらに山の中(上)に持倉という集落があるという情報を聞き、急遽訪れました。天空の里として、有名のようです。

画像は、持倉です。国道462号から県道172号に沿って船子川を遡り、一番奥の集落です。椹森までは、広い道路ですが、直前の連続カーブの細い道を登ると終点に持倉集落があります。地元の人に聞くと平家の落人伝説もあるようでした。

山岳集落を訪れるには時間が必要です。足が疲れますので、シップを持参し、毎日貼っています。

太泉八雲 11月 2日(金) 21:47
おお、久しぶりの書き込みです。
辰巳屋さんは南牧村にいらっしゃったのですね。
長野県佐久市の広川原から南牧村は、最近ときどき久しぶりにバイクで訪れ、改めて撮影で再訪せねばと思っていました。
いくつかは知らない、見たことの無い風景。奥が深いですね。地元民として反省と共に久々の集落探訪、刺激されます。

太泉八雲 11月 2日(金) 21:58
しかも、今年は何度もバイクで訪れている上野村の新羽、野栗沢、胡桃平、八倉、平原、橋倉、持倉、高塩、元船子、間物は全く知らない場所です。
群馬県上野村。奥が深い...。

万訪さん、長野県佐久市広川原で言うと、分水嶺よりも東側に位置しています。
が、豪雪地帯というのがネック。流通の中心地である下仁田よりも、城下町にして宿場町でもあった田野口藩の臼田の方が距離的にも地形的にも近くて合理的だったようです。

この界隈、再訪問されますか?

万訪 11月 5日(月) 06:31
下仁田より峠を越えて臼田の方が合理的
なるほどです。しかし、あの峠の高低差はどう考えても同じ行政区域として不自然に感じてしまいますね。

この界隈は、中央構造線づたいにつながる、天界の村の北限だと思っています。改めて動画撮影したいと思っておりますので、再訪問しようかな。

辰巳屋 11月 5日(月) 10:01
上野村の訪問地として、複数の地名を書きましたが、神流町の地名も含まれていました。八倉、平原、橋倉、持倉、高塩、元船子、間物は神流町です。失礼しました。

画像は、持倉の前掲の集落の反対側の建物です。養蚕農家の2階を改装したものと思われます。

辰巳屋 11月 5日(月) 10:02
画像は、南牧村の大仁田です。大仁田には、養蚕農家が多く残されていました。惜しいことに、大きな養蚕農家の建物が崩れかけようとしていました。

私は、その後、埼玉県秩父市の石間の沢口、半納の集落を訪問し、その後、山梨県の甲州古民家の集落を訪ねました。これは、整理中ですので、後日、報告します。

万訪 11月 5日(月) 14:16
辰巳屋さん、八倉の情報は私のサイト以外にありましたでしょうか?私は地形図で天界の村だとあたりをつけて訪れたもので、ほかに情報があれば教えていただきたいです。

辰巳屋 11月 5日(月) 16:50
八倉は、万訪さんの情報です。ありがとうございます。他にはありません。

ついでながら、時間がなかったので行けなかったのですが、神流湖の南側にも養蚕集落があるように思います。吉田太田部の久保田、相見、楢尾(以上秩父市)、鳥羽、宮本、浜の谷、住居野(以上神川町)です。地図で見ると斜面に広がる地形にあり、養蚕集落のように思います。
120050197170.mcat.ne.jp


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