2018年11月29日 (Thu)

gift from Kochi



ブライス者には有名なそーいちさんから、誕生日プレゼントとして安藤モモ子デザインの「映画の神Tシャツ」が届きました。

そーいちさんは生まれも育ちも東京人なんですが、定年前に早期退職&再婚して高知に移住したんですけど、たまに一緒に飲みに行ってた新宿のburaがロケ地にもなってる「止められるか俺たちを」が、高知にあるモモ子がオーナー?の映画館Kinema Mで上映されますよ~とメールしたところ、早速見に行ったそうで、ここで販売されてたTシャツを買ってくれたんですな。

映画監督達の名前と亡くなった年が並んでいるという、なかなかマニアックなデザインですが、いろいろ思い出す事もあったり・・・。

神代辰巳1995:葬儀の後で奥様から分骨的に少量の粉状にした骨を(神代さんの実家が薬局だった事もあって)薬の包みに入れてもらった奥田瑛二・荒井晴彦両氏が、博多で催された神代監督の追悼上映にゲストとして招かれまして、現地のスタッフには両氏は手に負えないとウチの映画祭に「誰か来てほしい」と依頼がありまして、オレが派遣される事に・・・。

上映後のトークが終了し、中洲に繰り出したんですが、奥田さんはバーの姉ちゃんとは話す気が無いらしく、深夜までどっぷりオレと話し込む事になったわけです。
同じホテルに滞在したので、翌朝の集合時刻にロビーで話してると、おもむろに「骨食った?」って話になりまして、「どんな味するんですか?」と聞くと「味なんかねぇよ」と言われたのでした。

相米慎二2001:オレが東京転勤直後、「相米さんが亡くなったから、築地本願寺に来い」と実行委員長の伊藤から連絡がありまして、通夜に参加すると・・・。
当時(同じ肺がんだったけど)まだ存命だった編集の冨田さんが白鳥あかねさんに挨拶しながら泣いていた。
2階に移動するように言われまして、階段上っていると長谷川和彦監督・光石研さん・薬師丸ひろ子・小泉今日子・永瀬正敏・等々がいました。

後日、相米さんの助監督もやっていた榎戸監督から連絡をもらいまして、「遺品の本が大量にあるから取りに来い」との事。
確かに大量にあったし、相米さんが読んでいた本だったら出来るだけ欲しいとは思いましたが・・・全てハードカバーだし重量的に限界があるな~と、10冊ほどをチョイスして帰ったのでした。

今村昌平2006:2001年公開だった「赤い橋の下のぬるい水」の完成披露試写に原田眞人監督から誘われて同行。
今村監督の舞台挨拶には爆笑していた原田監督でしたが、作品には全くのれなかったようで、諸々否定しながら銀座を歩き、そのままの勢いで食事に雪崩れ込んだのでした。

池田俊春2010:遺作になった「秋深き」を映画祭にて先行上映。夜のパーティーでもうつろな表情だったので、心配した白鳥あかねさんが「こっちで一緒に飲みましょう」と誘っていたんくらいで・・・羽田までの飛行機も同行したんですが、ずっとビールを飲んでいて、到着しても全ての乗客が下りた最後にフラフラと立ち上がり、夢遊病者のように歩き出したのを見て、かなりヤバイな~とは思ったんですが・・・同年12月に三重県の海に投身自殺していたのが発見された。

森田芳光2011:映画祭の常連ゲストだったので、いろいろ思い出はありますが、「ハル」の先行上映の翌朝に会場の掲示板に貼られた荒井晴彦氏のコメントを読んでいると、隣に森田監督もいて、「初めて褒められた・・・」と意外な表情だったのが印象的。
遺作になった「僕達急行 A列車で行こう」で参加された時も、いつものように笑顔で話していたんだけど・・・同12月、C型肝炎による急性肝不全で61歳で亡くなった。

若松孝二2012:映画祭でもburaでも20年以上お世話になった方で、還暦のお祝いに招待された際に二次会が始まってすぐに酔いつぶれ、buraの階段を数名の監督達に抱えられて消えていったのが忘れられない。
若松監督と田中陽造さんと3人で飲んでいた時に、陽造さんから「もしかして孔井くんって若松の方がオレより年下だと思ってる?オレはこんなだからジジイに見られるけど、若松より年下なんだよ」と言われ、驚いているオレに「知らなかったのか?」と笑っていた。
まさか新宿で飲んだ帰りにタクシーに跳ねられて亡くなるとは・・・。
常連だった店だと、連れがいない時は必ず自宅まで送っていたらしいけど。

このTシャツ、普通の時には着れないな~。




2018-11-29 05:58 in @nai's #